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耶律弘古(やりつ こうこ、生没年不詳)は、遼(契丹)の軍人。字は盆訥隠。遙輦氏の鮮質可汗の後裔。 == 経歴 == 統和初年、拽剌詳穏に任じられ、まもなく南京統軍使に転じた。13年(995年)、南征して四岳橋で会戦し、100人あまりを斬首した。北宋を攻撃して、戦功により東京留守となり、楚国公に封じられた。28年(1010年)、高麗遠征に参加して、耶律盆奴を補佐し、康肇を銅州で捕らえた。 30年(1012年)、西北部で反乱が起こると、南府宰相耶律奴瓜の下で反乱軍を攻撃した。禁軍を統率して、軍令は行き届き、諸部の多くを降伏させた。まもなく侍中に転じ、死去した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「耶律弘古 (盆訥隠)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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